先日、尿管結石を取り出すために尿道からカテーテルを入れて手術したんですが、僕が48年間「出口」だと思い込んでいた尿道が、医師は「入口」だと認識していたことに驚きを隠せなかったんですよね。
その入院中、看護師さんが「大阪の枚方市は北海道より広い」って言ってて、それを聞いた別の看護師さんは「静岡県民はブラジル人よりサッカーうまい」って話をしていて、僕は「こいつらバリ尊いエッセンシャルワーカーやけどアホやな」と解釈しました。
正に事実は1つ、解釈は無数。
ですね。

僕はずっと「人は出来事そのものに苦しむのではなく、その出来事に貼り付けた『意味付け』に苦しむ生き物なんやろうな」と思ってきました。
そして最近、その考えを後押しするような話をある人がしてたんですが、
人間は現実をそのまま飲み込んで生きているように見えて、実際はそれぞれが自分なりの意味付けをして生きている。
意味付けのパターンは、漫画、小説、映画、ドラマ、音楽などの物語体験から無意識に吸収されていく。
だからこそ教養が大事で、優れたリーダーとは「頑張る量」よりも「文脈を編集して意味を操作できる人」なんです。
出典:ある人
たしかに僕らは、起きた出来事そのものより、そこに自分が与えた意味で心が動くんですよね。
怒るか、落ち込むか、笑えるか、許せるか。
そこを決めているのは事実ではなく解釈。
そしてその解釈の源泉は、自分が触れてきた物語の量と質。
「バラ色の人生を歩みたければ、バラ色のサングラスをかけることだ」
と、かの中谷彰宏は言いましたが、物語は人生の見え方を決めるレンズみたいなものだと言えると思います。
そう言えばうちの娘たちは、それぞれ別の方法で物語をインストールしているんですよね。
長女(20)はなぜか毎晩のように友達や後輩の悩み相談室を開いていて、年間100人以上の相談を聞いています。
悩みは誰かの物語の断片なので、長女は人の人生のカケラみたいなものを大量に吸っていることになる。
この子が大人になった時、壁にぶつかったときの選択肢の幅は相当広いはずですよね。
次女(17)はマンガ怪獣みたいな子で、高2にして読破したマンガはもうすぐ1万冊。
その中には恋愛、友情、裏切り、再生、喪失、努力、絶望、ギャグまであらゆる人間模様が詰まっているはず。
登場人物1万人分以上の人生を追体験してるようなもんなので、そりゃ意味付けの手数はめちゃくちゃ多くなりますよね。
三女(13)は毎日音楽漬け(特にミセス)で、お気に入りの歌詞をノートに何十ページも書き写しています。
歌詞というのは圧縮された物語なので、短い一行に複層的な人生が織られています。
こういう感受性の蓄積は、本人の解釈に深い陰影を作るはず。
四女(9)は絵本ニストで、図書館で絵本を月に100冊以上借りてきてそれを10回ずつ声に出して読みます。
絵本はシンプルだけど、そのぶん強い教訓の種が埋まっています。
その「シンプルな価値感のコア」を10回音読するのですから、めちゃくちゃ潜在意識に深く根を張る。
アファメーションに近い感じですよね。
四姉妹は方法は違えど、全員が「物語の栄養」を自分の好きな形で吸っているし、僕も妻もそこへの投資は惜しみません。
「勉強しなさい」と言うより100倍、人の役に、人生の役に立つ栄養を貯めていってるはずだから。
物語に触れる量が、大人になってから使える「解釈の武器庫」を作るから。

人生に登場する出来事は、データで言えば事実は一つ。
でも解釈は無限。
心理学で言えば、僕たちは出来事をそのまま見ているのではなく、「スキーマ」と呼ばれる枠組みや、「ナラティブ」と呼ばれる物語構造を通して現実を見ているんですよね。
人間は「ナラティブ・アニマル」だと言う研究者もいて、認知科学の世界では人は情報処理マシーンというより「意味付けマシーン」として描かれ始めています。

例えば「面接に落ちた」という事実があったとして、「自分は価値がない」と解釈する人もいれば、
「合ってない場所だとわかってラッキー」と解釈する人もいる。
この差は能力の差ではなく、意味付けの引き出しの数の差ですよね。
ポジティブ・ネガティブって話の前に、「捉え方の母数」が多いか少ないかなんです。
ほとんどの人は、子どもの頃に触れた物語からその引き出しを作ります。
漫画やアニメで見た主人公の生き方が、大人になってからも心のどこかで参照される。
つまり、子どもの頃にインストールした物語は、大人の意思決定の補助輪になる。
セカオワの「サザンカ」って曲の歌詞にある、
「いつだって物語の主人公は笑われる方だ。人を笑う方じゃない」
ってこの一行を知ってるだけで、
人と違うことをして笑われた時の自分への評価がまるごと変わってしいますよね。
人は出来事そのものじゃなくて、自分が貼った意味に刺される。
だから意味付けの選択肢が多い人ほど、人生を軽やかに越えていけると思います。
僕の周りには、いわゆる成功者と呼ばれる人が何人もいます。
能力の高い人も多いし、経済的な成果もすごい。
でもその中に一定数いるのが、
「どれだけ成功しても虚無が消えないタイプ」。
それは「愛されていない」ということへの悲しい防衛本能の発露が、優秀さであったり成功への渇望だったりします。
どれだけ手にしても満たされない。
これは、意味付けの選択肢が極端に少ないから起こる現象かもしれません。
例えば「愛を感じられていない」という一つの事実に対して、
意味付けが一つしかないと、心がずっと同じ場所に釘付けになる。
でも、物語の引き出しが多い人は、
「愛が本当になかったかはわからない」
「表現が不器用だったのかもしれない」
「距離=冷たさじゃない」
「愛を知らないから愛を与えられないとは限らない」
とか、いくらでもフレームを変えることができる。
解釈が増えるほど、現実とのつき合い方が多角的になる。

成功しても虚無が消えない人は、
事実は動かせても意味付けを動かすレパートリーが少ないのかもしれなくて、それは本人にとって手に入れたものの大きさと多幸感が釣り合っていないと感じるかもしれないですよね。
僕は娘たちに「エシカルであれ!」とはもちろん強要しません。
それよりも、
「多角的に意味付けを持てる人であって欲しい」
と思っています。
誰かに嫌われても、仲間外れにされても、失敗しても、
その事象に単一の結論を出さずに、複数の角度からその物語を読み込むように世界を見れたら、人生は明らかに軽やかになる。
エシカルマインドって、世界に起きる出来事に対して「自分だけの物語」を押し付けるのではなく、「関係する全員の物語」を想像し直す力。
メタ認知のさらに1つ上の視点と言うか。
「選択肢は一つじゃない」と知っている人間は、他者の失敗にも寛容になれるし、意味付けの引き出しを持っている人は、きっと他者にも自分にもやさしくなれる。
だから娘たちにはどんな出来事にも百通りの意味付けをして、
その中から一番軽やかで、一番やさしいストーリーを選び取る、そんなふうに人生を編集していける人であってほしいと願う。
そしてそれはきっと、僕自身にも課されたテーマなのだろう。
エシカルを難しい道徳の話にせず、軽やかな解釈の練習として日常に落とし込んでいくこと。
それがエシカルノーマルの代表として、ど真ん中の活動なのかもしれない。

商品・サービスがコモデティ化してきたことで、ビジネスには今まで以上に「社会的視点」が必要になってきたんだと感じています。
ハウスクリーニング業界をエシカルがノーマル(普通)な業界に改革しようとしているエシカルノーマル。
FC募集を始めて2年ちょい(現在25店舗)、「月に1店の限定募集!」という緩やかな感じで、2026年春までに30店舗を目指しています。
「新しいことに挑戦したい!」
「どうせならもっと世界を良くする仕事を!」
と考えてるあなたへ、「ぜひ仲間になってください!」と言いたい。
実際に声に出すわけではないですが、言いたい。
こっちばっかり言うの恥ずかしいのでそっちから早く言ってきてください。
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