最近は老眼だけでなく聴力も明らかに衰えてきており、
この前も次女(高2)に「五月みどり過ぎるな」と言われ、
「誰がバツ3やねん!・・って、ようそんな往年の歌手知ってるな!」
ってツッコんだんですが、困惑する次女によくよく聞くと
「シャツ黄緑過ぎるな」と言ったんだと。
これなんかは聴力の悪化だけでなく、思い込みも強過ぎるパターンですね。
言い間違いも増えてきており、先日も頭痛持ちの妻に
「頭痛いところ悪いんやけど・・」
と声をかけたつもりが
「頭悪いところ痛いんやけど・・」
と言ってしまいブチ切れられました。
エシカルノーマル代表としては非常に非道徳的な発言だったなと深く反省をしております。
「やさしく在る」ってムズいなぁ。
「エシカル=道徳的」みたいな話を家でしていたら、三女(中1)が
「道徳の授業キライ。答えがないから」
と言ったんですよね。
確かに「答えがない問題」と聞くと難しく感じますが、正直社会に出たら明確な答えがある問題の方が少なく、特にある意味でわかりやすかった資本主義社会が新たな大陸に軟着陸しようとしている時代にあって、
「道徳をどう考えるか」はエシカルノーマルとしてだけではなく、1人の父親として、1地球市民として定義しておかないといけないなと思います。
まずあの(どのやねん)コールバーグさんの理論は、
「年齢による認知発達に応じて必要な社会的経験をすることによって、必要な価値観や知識を身に付けていくことで道徳判断が発達する」
という考え方であり、以降の道徳教育に対して大きな影響を与えました。
簡単に言うと、
レベル1 善悪を自己中心的に判断
レベル2 善悪を周りの評価で判断
レベル3 善悪をもっと広いものさしで判断
みたいな感じですかね。
例えば子どもに
「ミスってお皿10枚割ってしまうのと、わざとお皿を1枚割るのとどっちが悪い?」
と聞くと、4・5歳の子どもは
「損害の大きさ=悪の大きさ(結果論的判断)」
なので、前者と答える確率が高く、9・10歳頃になると、
「なぜその損害が出たのか=悪の大きさ(動機論的判断)」
なので後者と答える確率が高いのだそう。
これは一定の年齢までは「発達段階」で大まかに分類されるんですが、大人になるとどこかの段階でSTOPし、自身の過去の成功体験や失敗体験、常に気にしていること、我慢していることなどで醸成されたバイアスで凝り固まってしまう人が多いってことなんですよね。
わかりやすい例として、コロナ禍は「マスク警察」や「ワクチン警察」が爆発的に増えましたよね。
レベル1
「マスクしたくない、ワクチン打ちたくないとかってワガママやん!それで人(自分)に迷惑かけんなよ!」
レベル2
「みんなが頑張ってルール守ってるのに、一部の人が守らないなんてあり得へん!そういうこと平気でできる人キライやわー」
レベル3
「何がリスクで何が安全なのか。誰かの意見ではなくまずエビデンスに沿って判断し、自分が守るべきと思ったことを守ろう」
って感じになるかと思います。
「エシカル(道徳的)」なんて言葉を使うと、よく「法律やルールを守ることが大前提」だと思われることが多いんですが、
誤解を恐れずに言うと法律もルールも必ずそれを「作った人」がいて、そのほとんどがその「作った人」にとって都合のいいこと(その人に直接的なメリットがある、そのルールを作ることによって多くの人に支持される、大勢を管理しやすくなる、など)がある場合が多いわけですよね。
(もちろん本当に必要な、万人の生きやすさを願って作られたものもあるという前提ですが)
そんなものを思考停止でただ守ることをエシカルとは言わないわけです。
エシカルノーマルには「10R」というブランドプロミスがあるのですが、その10Rの最後のRは敢えて環境関連用語ではなく「ロックンロール」としており、ハウスクリーニング業界のファーストペンギンとして世の中の常識やルールを
「それエビデンスあるんか?」
「ソースどこなん?」
「誰かにとって都合のええルールになってんちゃん?」
と、常に大阪弁かつクリティカルシンキングで考える、言わば「反骨精神」を表しています。
このコールバーグクエスト(ドラクエみたいに言うてます)で言う「道徳レベル3」でようやくエシカル思考だと呼べるのだと思っています。
「いま自分はレベルどのへんなんやろう?」
と時折足を止めて考えてみるのも、エシカルの入り口かもしれませんね。
ここまでごちゃごちゃ書きましたが、「結局エシカル(道徳)は何のためにあるか」と考えると、「やさしく在る」ためにあると思うのです。
「やさしく在る」って、案外難しいじゃないですか。
「相手のため」と思ってるけど、つい「自分の気持ちよさ」を優先してしまいがちになる。
そうならないためには「知識」が必要で、例えば
などなど、知らないと配慮できないことって多いですよね。
ほんの少しの知識で誰かを救うこともあれば、逆に言えば知識がないままのやさしさは、時にナイフにもなり得る。
「気持ちはあるけど知識がない人」は「せっかくやってあげたのに!」ってなりやすいし、
「知識はあるけど気持ちはない人」は行動に移さない。
気持ちだけじゃすれ違うし、知識だけじゃ冷たい。
そのふたつが手をつなげたとき、やっと「やさしく在る」ことができる。
道徳は「その両方をちゃんと学ぼうぜ」って文学で、
僕も三女と同じように子どもの頃は道徳の授業が苦手でしたが、今思うとそれは「正しいことをしよう」言われてる気がして息苦しかったからで、本当の道徳は誰かに強制される「義務」じゃなく、実は
「幸せに生きるための、静かなライフハック」
を教えてくれていたのだと、そう思うのです。
商品・サービスがコモデティ化してきたことで、ビジネスには今まで以上に「社会的視点」が必要になってきたんだと感じています。
ビジネス上のメリットだけを考えた上辺だけの視点ではなく、深く道徳的に追求した視点でサービス展開しているエシカルノーマル。
FC募集を始めてもうすぐ2年(現在20店舗)、
2026年3月までに30店舗を目指しています。
「新しいことに挑戦したい!」
「どうせならもっと世界を良くする仕事を!」
と考えてるあなたへ、「ぜひ仲間になってください!」と言いたい。
実際に声に出すわけではないですが、言いたい。こっちばっかり言うの恥ずかしいのでそっちから早く言ってきてください。
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