先月も書いたんですがただいま絶賛ドライビングスクールでリスキリング中なんですよね。
僕なりに真面目に取り組んではいるんですが、路上教習で教官に「路側帯を通れるのは歩行者と・・?」って聞かれて、「大喜利かな?」と思って「ミニブタ?」ってボケたら、どうやら色々見誤っていたようでハイドロプレーニング現象ぐらいスベってしまったり、
路上検定中に知り合いが歩いてるのが見えて思わず2回クラクションを鳴らしたら警音器使用制限違反とみなされ一発レッドカードを食らい、
「このスクール始まって以来の落ち方です」
と絶賛されたり、「学び直すとは正にこういうことだな」と日々噛みしめています。

最近、「自分は何者なのか」をあらためて考えていて、どうやら僕の真価本領は、経営でもエシカルでもなく「ユーモア」だということに気づきました。
先日、経営の大先輩が「誰をライバルと思ってるか。孫さんがデカいことやった時に悔しいと思えるか」みたいな話をされてて、そう言えば僕は仲間の経営者の会社がぐんぐん成長しても、同級生がものすごい金持ちになっても、「えーいいなー」とは思いますが、正直そこまで悔しくはないんですよね。
ところが、僕がAIでつくっている歌ネタとよく似た設定の芸人さんの動画が流れてきて、当たり前なんですが僕のより全然おもしろかった時、スマホを伏せたくなるほど悔しい。
※その動画
TVで瞬間的に「それしかないな」ってレベルのドンピシャのボケやツッコミを観た時は、「すごいな!」の後になぜか悔しくなる。
どうやら僕は経営者として負けるより、ユーモアで負けた時の方が「自分を否定された感」が強いみたいです(経営者として終わってる)
人は「何を欲しがるか」より、「何に嫉妬するか」を見た方が、自分の正体が分かるのかもしれないし、肩書きや収入では平気なのに、ある分野で負けた時だけ腹の底から悔しいなら、そこには「自分が何に救われてきたか」が出るのだと思います。
僕にとって、それが「笑い」だったのかもなと。
子どものころ僕は、生きることがあまり得意な方ではなかったのですが(イジめられてたし)、そんな時にある本でチャップリンの「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という名言に出会ったんですよね。

子どもながらに衝撃を受けて、「どれだけつらいことでも、少し離れたところから見れば、いつか笑いに変えられるんだ」と思いました。
怒られている最中は当然まったく笑えないし、失敗した当日はただただ落ち込みますが、数日後に友達へ話してみると「いや、お前もだいぶ悪いやんけw」とツッコまれ、そこから急に笑い話になることってあるじゃないですか。
起きたことは何も変わっていないのに、時間が経ったり、誰かの見方が入ったり、自分の情けなさまで含めて話せるようになったりすると、「人生終わった」と思っていた出来事が、「めっちゃ恥ずかしかったエピソードトーク」になる。

それ以来、僕はたくさん失敗し、たくさん怒られ、そのたびに反省より先にオチを探して余計に怒られるという、まったく反省していないような反省方法を続けてきましたが、それでも笑いが必要ではない場面なんて、僕の人生にはほとんどなかったと思っています。
ただし、これはあくまで僕が自分の痛みを扱う時の話であって、まだ苦しんでいる人へ「そのうち笑えるって」と言うのはもちろん違うし、他人の痛みを外側から勝手に笑い話にするのは、ユーモアでも俯瞰でもなく、ただ雑に扱っているだけだとは認識してますよ多分おそらく。
先日見かけた投稿で、笑いは単に「おもしろい」という感情ではなく、人間の予想が外れたあと、それが危険ではないと分かった時に起きる「緊張の解放」だと説明されていました。
たとえば張り詰めた会議で社長が大事な話をしようと立ち上がった瞬間に膝が机の下にぶち当たり、椅子と絡まりながら壮大にコケたら、
「偉い人が大事な話をする」というこちらの予想は崩れますが、怪我もなく本人も恥ずかしそうに照れ笑いしていると分かったところで、周りもやっと笑える・・みたいな。
もちろん、すべての笑いをこの一つの仕組みで説明できるわけではありませんが、心理学にも「無害な違反」という考え方があって、「何かがおかしい」と「でも大丈夫」が同時に成立すると、おもしろさが生まれやすいのだそう。

これって漫才やコントだけの話ではなく、自分の失敗を笑えるようになる時にも当てはまると思ってて、失敗した瞬間は「こんな自分であってはいけない」と焦りますが、少し経って「まあ、人生までは終わらんか」「ネタになるしな」と考えると、たった一度の失敗で自分の全部を決めなくていいと思えるんですよね。
ただ、ここで考えたいのが、「大丈夫だった」と判断しているのは誰か、ということです。
椅子ごと転んだ本人も笑っているなら、その場にいたみんなが「大丈夫」を共有できますが、本人は痛がっていたり恥ずかしそうにしていたりするのに、周りだけが笑っているなら、予想が外れても大丈夫だったのは見ている側だけですよね。
同じように、笑っている人数が多くても、笑われている本人だけが傷ついているなら、その笑いがエシカルだとは言えないし、笑いの良し悪しは「何人笑ったか」より、誰までがその「大丈夫」の中に入っているかで変わるのだと思います。
環境問題に限らず、子育てでも健康でも仕事でも、自分が大切にしているものを大切にしない人を見ると、「なんで分からへんねん」と思うことがあるし、本気で信じている価値観ほどそれに従わない人を許しにくくなるんですよね。
エシカルを直訳すると「倫理的」「道徳的」といった意味になりますが、僕はこれを、法律やルールにはなっていなくても、地球に住ませてもらっている側のマナーや配慮として、人や生き物や環境へ負荷を押しつけ過ぎないようにする考え方だと解釈していて、めちゃくちゃ肚に落ちています。
だからこそ、環境に配慮した商品を選ばない人や、知っていても便利さを優先する人を見ると、「もうちょっと考えてもええのに」と言いたくなるし、僕自身も心の中で勝手に採点していることがあります。
でも僕だって、車にも乗るし、つい無駄なものも買うし、牛肉も食べるし、急いでいる時は便利な方を選ぶので、エシカルを語る側にいるからといって、急に成熟した道徳人間になるわけではない。

そもそも人が幸せに生きるためにエシカルという考え方があるはずなのに、それを信じるほど、幸せに生きるために最も必要かもしれない「許す」というマインドから離れていくなら、それはかなり矛盾していると思うんです。
もちろん「許す」とは、誰かを傷つけたことまで無かったことにするとか、責任を問わないという話ではなく、間違いは間違いとして伝えながらもその一回で相手の人間性まで全部決めてしまわないということ。
人は間違いを正面から指摘されると、素直に「そうですね」と改めるより、先に「でも」「だって」と自分を守ろうとすることが多く、これは反省する気がないというより、「自分はそんなに悪意をもっている人間ではない」という自己防衛本能ですよね。
そんな時、伝える側も自分の失敗や矛盾を笑って話せたら、聞く側も一方的に責められている感じが薄くなり、「じゃあ次はどうしようか」という話をしやすくなるので、笑いは問題をごまかすためではなく、間違いを認める時の恥ずかしさを少し減らすためにも使えるのだと思うんです。
笑いは「思ってたんと違う。でも大丈夫だった」から始まり、エシカルは「自分にとって便利だけど、みんなにとって大丈夫なのか」と考えるところから始まるので、どちらも自分が当たり前だと思っていた見方をいったん疑うんですよね。
エシカルノーマルを始めたのも、掃除が終わって部屋がきれいになればそれでいいと思っていたところから、洗剤を扱う作業者や、そこで暮らす人やペット、排水の先にいる水生生物まで考えてみると、依頼者が喜んでくれても「全員が大丈夫だった」とは言い切れないことが分かったからでした。

みんなが笑って盛り上がっていても、一人だけ傷ついているならこれと同じことで、要するに、エシカルも笑いも「誰までを大丈夫の中に含めるか」という話なのだと思います。
チャップリンの言葉に戻るなら、自分の失敗や怒りからは少し離れて見てみる(お笑い)一方で、他人の痛みや自分には見えていなかった負荷には、むしろ近づいて考える(エシカル)必要があるということ。
この距離感が逆になると、他人の痛みは遠くから笑うのに、自分の正しさだけは大きく語る人になってしまうので、それは笑いとしてもエシカルとしても、だいぶダサい感じですよね。
エシカルのない笑いは、立場の弱い人を傷つけるものになりやすく、笑いのないエシカルは、自分と違う人を責める息苦しいものになりやすい。
だからこの二つは、相性がいいというより、お互いがおかしな方向へ進まないために必要なベストパートナーみたいなものだと思います。

人間はたぶん、どれだけ学んでも間違えなくなることはないし、ずっと正しい選択だけを続けられるほど立派でもないので、間違えるたびに自分や誰かを退場させていたら、最後には誰も残らない。
人生を笑いに支えられてきた僕が、その後エシカルに出会ってここまで傾倒しているのは、最初は自分でも少し意外でしたが、今考えると何の矛盾もなかったんですね。

人は間違うし、僕も間違う。
それでも「人間らしいやん」って笑いに変えて、相手を嫌い切らず、自分も嫌い切らずに「次はもうちょっとマシにやろう」と思えるから、僕は「笑い」こそがいちばん人間くさくて、いちばん続けやすいエシカルだと思っています。

商品・サービスがコモデティ化してきたことで、ビジネスには今まで以上に「社会的視点」が必要になってきたんだと感じています。
ハウスクリーニング業界をエシカルがノーマル(普通)な業界に改革しようとしているエシカルノーマル。
FC募集を始めて3年(現在28店舗)、
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実際に声に出すわけではないですが、言いたい。
こっちばっかり言うの恥ずかしいのでそっちから早く言ってきてください。
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