いきなり自分語りを始めてしまうタイプだと認識していただいて結構なんですが、
実は僕は30代ぐらいまであんまり人の気持ちがわからないサイコパス野郎で、かつ社会的にも害悪でしかないノットエシカル野郎でした。
特に10代はここに書けないことだらけですが、唯一書けるとしたら、カップ焼きそばの熱湯をアリの巣に流し込んだことがあることです(不殺生戒違反+環境負荷)
変化があったのは娘ができてからで、初めて「親心」というものが芽生えて「もしかして世の中の全員に親がいて、みんな自分の子どもにこんな気持ちを抱いて生きているのか?」と想像し始め、40代ぐらいからちょっとずつ「残りの人生で今までの罪滅ぼしをしていこう」と考え始めました。
エピソード的にはほぼ「ユリアが掌に子犬を乗せて改心させたフドウ」ですよね。



ちなみに僕は18歳の時に運転免許を取ったんですが、当時学科テストは鉛筆コロコロで23回落ちて24回目で運よく通ったので、道交法なんてつゆ知らず、当然そんなヤツを国が許すはずもなく何度も免停になり最終的に免許を取り上げられる始末。
そんなワケで「ちゃんと道交法を学び直したい」という思いから、最近30年ぶりに教習所に通っているんですね(流行りのリスキリング)
30年ぶりの教習所は年下の教官だらけで、昔みたいにむちゃくちゃ偉そうな人もいなくてめっちゃ平和です。
僕は運転自体はずっとしてきたので、ある教官から初回の教習で「本川さんは運転経験者なので、大して教えることはないですね。コースと注意点だけ伝えるので、あとは雑談でもしましょう」と言われました。
教習所で「大して教えることがない」と言われると、少しうれしい反面、教習料が勿体ない気もしてしまう。
ラウンジにしてはハンドルが付いているし、キャバクラにしては教官は男だし。
ちなみにその教官は30代のいがぐり頭の男性で、もうすぐ結婚するのだと。
ただ自分もパートナーも結婚式は挙げる価値観がないのでウェディングフォトだけ撮ろうと考えているらしく、
「本川さんは結婚式を挙げたんですか?挙げて良かったですか?」
と聞かれたので、僕は「挙げましたよ。よかったことは3つですね」と説明しました。
①その後の人生に影響を与えるぐらい、とても大切な記憶として刻まれた
自分の人生において、自分が主人公として人が集まってくれる機会は、それほど多くない。
普通の人生なら大きくは、産まれた時、結婚した時、死ぬ時。
主にこの3回だけど、産まれた時は記憶がないし、死ぬ時は思い出として保持できる時間が短すぎる。
だから自分のために人が集まってくれている景色を瞼に焼き付けられるのは、実は結婚式だけ。
今もたまに挫けそうな時にその景色を思い出すことがあるぐらい、幸せな景色だよ。
②最高の親孝行になった
結婚式ってどうしても自分たち(新郎新婦)のためのイベントだと思ってしまうけど、実は一番喜ぶのはその両親。
特に新婦の両親からすると、数十年間、心を尽くして育てた愛娘が自分たちの元を去って嫁いでいく日。
喜びもあるけど当然寂しさもある。喪失感もあるかもしれない。
子育てというのは、給料も出ないし(むしろ出費ばかりw)、表彰状ももらえない。
だけど、たくさんの人に祝福され、生い立ちのスライドを見、娘から感謝の手紙を読まれ、ちょっとこそばゆくも誇らしい気持ちになって、そこでようやく親として一つの区切りをつけられる。
だから結婚式は子育ての卒業式でもある。
僕もその日ばかりは両親に素直に今まで育ててもらった感謝を伝えられた。そんな機会はなかなかないんじゃないかな。
③工夫次第では経済的なメリットもある
結婚式はもちろんお金がかかるけど、オフシーズンを狙ったり、良質なレストランウェディングを選んだり、引き出物の1部を手作りしたり、ムービーも自作したりなどの工夫次第で満足度を落とさずに予算を下げることができ、結果として黒字にすることもできる。
僕の場合は引っ越し費用や家具、家電を購入する資金の足しになった。
シンプルに助かった。
この3つを50分、車に乗りながら伝えたところ、30代いがぐり頭の教官は興奮気味に
「今日パートナーと会うのでこの話します!」
と言い、1週間後に再度同乗した際には
「結婚式挙げることになりました!式場を探し始めてます!どこかオススメはありますか?」
と、僕に教習ルートを伝えることすら忘れて質問攻めして来て、めでたく僕は謎のコンバージョンを果たしたのでした。

この話を振り返った時、30代いがぐり頭の教官の心が動いた理由は僕が結婚式の魅力を説明したからではないと思いました。
「結婚式は一生の思い出になるよ」「親も喜ぶよ」とだけ伝えても、おそらく彼は動かなかったのではないかと。
だってそんなことは、言われなくても想像できますもんね。
30代いがぐり頭である彼の心が動いたのは、結婚式が
自分たちにとって重要なイベントになり得ること、
自分たちの大切な人にとってもそうである可能性があること、
さらには現実的なメリットも見込めること
に気付いたから。
これって実は「ソーシャルビジネスを始める理由」にも、ほとんどそのまま当てはまるよな・・と思いました。
よく言われることですが、ソーシャルビジネスって一般的なビジネスより難易度が高いんですよね。
一般的なビジネスは「そこに市場があるか」が先なので、基本は「儲かりそう」だからやる。
ソーシャルビジネスは「そこに解決すべき課題があるか」が先なので、市場の大小は二の次。
だから現時点で社会課題として長く残っているということはそれだけ解決が難しく、市場原理だけでは手が届きにくかった可能性が高いからです。
助けを必要としている人とお金を払える人か同じか限らないし、課題の大きさがイコール市場の大きさでもない。
また、普通のビジネスであれば「売上が上がった」「顧客が増えた」で成功を測れますが、ソーシャルビジネスは事業が成長しても、肝心の社会課題が改善されていなければ「何のための成長だったのか」という話になります。
逆に社会的には価値が高くとも、利益が出ずに事業が成り立たなければその価値を届け続けることはできません。
つまりソーシャルビジネスは、「正しいこと(必要とされている課題解決)」と「事業として成立させる(継続的に利益をちゃんと生む)」を同時に求められる。
その「正しいこと」が金になりそうなものなら企業が放っておくわけないので、残ってる時点ですごく相反してそうな、明らかに矛盾してそうな両立が必要なのです。
正しいことをしているのだから頑張れるはずだ、社会に必要なのだから続けられるはずだと思われるかもですが、人間は正しさだけで何年も走り続けられるほど単純でも立派でもありません。
社会課題への怒りや悲しみは事業を始めるきっかけにはなりますが、それは長く燃え続ける燃料ではなく、どちらかと言うと最初に火をつけるための着火剤に近い。
日々の売上不振や資金繰り、人間関係、思ったほど変わらない社会の現実にさらされるうちに、当初の大炎は少しずつ小さくなっていきます。
だからこそソーシャルビジネスを継続するには、社会課題を「正しいから取り組むべきもの」に留めず、自分の人生や現実と切り離せないものに変えていく必要があるのだと思います。

世の中には解決すべき課題が無数にあり、環境、貧困、教育、福祉、人権、動物、地域、雇用など、どれも重要だからこそ、すべてを自分が背負うことなんてとてもできません。
それでも、なぜこの課題だけは見過ごせないのか、なぜ他の誰かではなく自分が関わろうとするのかを言語化できなければ、事業が苦しくなった時に「別に自分がやらなくてもよかったのではないか」という疑問が必ず頭をもたげます。
その理由は立派な使命でなくてもよく、自分や家族が困った経験でも、仕事を通じて知ってしまった現実でも、過去の失敗への後悔でも、あるいは単純に、その問題を放っておく自分を好きになれないという理由でもいいと思います。
大切なのは、社会課題の重要性を説明することではなく、その課題と自分の人生がどこでつながっているのかを説明できることです。
僕たちの仕事(エシカルノーマル)も、ただ効率よく汚れを落とすだけなら、もっと強い洗剤を使い、もっと安く短時間で終わらせる方法を選べばよいのですが、人やペット、水生生物、環境、そして作業する人への負荷まで考えようとすると、どうしても手間もコストも増えます。
それでもその面倒なやり方を選ぼうとするのは、清掃の裏側で誰かや何かに押しつけられている負荷を、仕事を通じて見てしまったからだし、見てしまった以上、見なかった頃と同じようには戻れません。
自分事とは、強い使命感に酔うことではなく、「この問題から自分だけ降りることはできない」と認めることなのかもしれません。
「社会のため」「環境のため」「困っている人のため」という思いは素晴らしいと思いますが、正しすぎる言葉は時に人間の感情から遠くなってしまうと感じます。
社会という言葉は大きすぎて顔が見えず、環境という言葉は範囲が広すぎて、自分が今日何をすればいいのか分からなくなる(エコアングザイエティ)ので、理念を継続するには、その向こうにいる具体的な誰かを思い浮かべる必要があります。
香りによって日常生活が制限されている人、強い薬剤に不安を感じながらも、他に選択肢がなく我慢している家庭、子どもやペットへの影響を気にしつつ、それでも汚れを落とすためには仕方がないと諦めている人。
「社会課題」という巨大な荷物を背負おうとすると、その重さに耐えられなくなりますが、その課題の向こうにいる一人の顔が見えれば、何のためにやっているのかを見失いにくくなります。
ただし、誰かのためにやるという言葉には、少し危うい部分もあります。
自分は助ける側で、相手は助けられる側だと固定してしまうと、善意は簡単に優越感へ変わり、いつの間にか「正しい自分」と「分かっていない人」を分けるための道具になってしまう。
誰かのためにやるとは、その人を下から引き上げることではなく、自分も同じ社会の仕組みをつくっている一人だと認め、その人が負担しているものを「自分の問題」として引き受けることなのだと思うんですよね。

ソーシャルビジネスの世界では利益の話をすると、社会課題を金儲けに利用しているように見られることがあります。
しかし利益が出なければ人を雇えないし、よい商品やサービスをつくるための研究や改善にも投資できず、必要としている人に存在を知ってもらうための広告も出せないので、最後は代表者だけが疲れ切って「尊い活動だったのに・・」と言われながら事業が終わってしまいます。
尊さで家賃は払えない。
これも事実。
むしろ社会課題の解決を本気で目指す事業ほど、利益を出す必要があります。
利益は理念の反対側にあるものではなく、理念を継続させ、届く範囲を広げ、次の挑戦を可能にする燃料だからです。
もちろん、利益を出すために課題を必要以上に誇張したり、困っている人を広告の材料として消費したり、売上が増えても課題の解決にはつながらない仕組みになっているなら、それはソーシャルビジネスという看板を利用しているだけのエセビジネスです。
だから問うべきなのは、「利益を取るか、理念を取るか」ではなく、何を守るために利益が必要なのか、誰にコストを押しつけずに利益を生み出すのか、そして利益が増えるほど課題解決も進む構造を作れているのか、ということ。
誰かのためにやるという思いだけでは自己犠牲になりやすく、自分のためだけでは社会課題を利用することになり、利益だけを見れば理念が消えますが、反対に理念だけを守ろうとすれば事業そのものが消える可能性がある。
ソーシャルビジネスに必要なのは、そのどれか一つを正解にすることではなく、自分のため、誰かのため、事業のためという三つを、同じ方向へ進むように設計することなのだと思います。
30代いがぐり頭の教官が結婚式を挙げることにした話へ戻ると、彼は結婚式に関心がなかったわけでも、両親への感謝がなかったわけでもありません。
ただ、それまでは結婚式が自分たちとは少し離れた場所にある「する人もいる」程度のものだったのだと思います。
そこに、このタイミングでしか見られない景色という「自分とのつながり」、両親のためという「他者とのつながり」、そして新生活を支える可能性という「現実とのつながり」が生まれたことで、結婚式は一般論から一気に自分たちの選択へ変わりました。

ソーシャルビジネスも、社会課題を知り、共感し、正しいと思っただけでは、まだ自分事になったとは言えません。
誰の顔を思い浮かべているのか、なぜ自分はその問題から離れられないのか、そして続けることで自分や仲間にもどんな価値が返ってくるのかがつながった時、初めてその課題は、自分の人生の外側にある問題ではなくなります。
自分事という言葉は、強く共感することや、熱い使命感を持つことのように使われますが、本当は感情の強さではなく、自分の人生から切り離せない構造ができているかどうかなのかもしれません。
感情は揺れるけど、構造は簡単には崩れない。
だから、ソーシャルビジネスを続けられる人は、特別に意識が高い人でも、自己犠牲に耐えられる強い人でもなく、自分の人生と、誰かの痛みと、現実の利益を一つの線で結び、そのどれかを犠牲にしなければ成立しない形ではなく、三つが支え合う仕組みをつくれた人なのだと思います。
社会課題は、正しいと叫ぶ人が増えた時ではなく、それを自分の人生から切り離せなくなった人が増えた時に、初めて本当に動き始めるのだと思っています。
山のフドウが命を懸けて、子どもたちを守るようになったぐらいの原動力に。


商品・サービスがコモデティ化してきたことで、ビジネスには今まで以上に「社会的視点」が必要になってきたんだと感じています。
ハウスクリーニング業界をエシカルがノーマル(普通)な業界に改革しようとしているエシカルノーマル。
FC募集を始めて3年(現在28店舗)、「月に1店までの限定募集!」という緩やかな感じで、共感いただける仲間を募集しています。
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「ぜひ仲間になってください!」と言いたい。
実際に声に出すわけではないですが、言いたい。
こっちばっかり言うの恥ずかしいのでそっちから早く言ってきてください。
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