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根本解決と対症療法は対立するか?

昔から重言(同じ意味の言葉を重ねる)が嫌いで、
「一番ベスト」とか聞くと「え?」って聞き返してしまいます。
ちょっと油断すると、

「クリスマスイブの夜に」とか(イブは前夜って意味なので)
「チゲ鍋」とか(チゲは鍋料理って意味なので)
「ぐっすり眠りや」とか(ぐっすりの語源はGood Sleepなので)

とかまで気になってきて、気になり過ぎて娘への手紙に敢えて重言を使ってしまったり・・・
これは「最初は嫌いだったけど嫌い過ぎて意識しまくるが故に最終的に好きになる」って現象かもしれなくてホント頭痛が痛いですね。

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恥ずかしいパパの手紙

1人が「どっちも」じゃなくて、分担して「どっちか」


さて、今回の本題なのですが、ソーシャル界隈ではよく「根本解決」と「対症療法」の価値観がぶつかることがあります。

「こども食堂は根本解決にならない。あくまで対症療法だ」とか、それに対して「根本解決には10年20年かかる。その間、泣いてる人を見てみぬふりしろと言うのか」みたいな。

でもこれって普通に考えると両方必要だと思いませんか?
交通事故にあって血まみれで倒れてる人に止血や心臓マッサージしてる人に対して「それ根本解決にならないですよ?」っていう人はいません。
一方で、まだまだ足りていないと言われている救命救急センターや救急車の拡充を「必要ない」という人も恐らくいない。

気候変動に対しても同じ。
「日常生活でできることをする」は、ともすれば対症療法かもしれないけどめちゃくちゃ大事だし、「クリティカルなイノベーションで根本的に解決していく」も間違いなく必要です。

「そりゃどっちもできるんなら苦労しないよ」
という声が聞こえてきそうですが、これは「同じ人がどっちもは難しい」が答えで、その人の適性に応じて「どっちかやる」を分担する、は可能なんじゃないかと思うのです。

「原体験持ち」の偏り


例えば僕は1社目の(株)Snailtrack代表として、いわゆる社会的弱者と呼ばれる人たちへの支援事業を多く展開してきました。

  • シニアや障碍者さんの日常生活のサポート(介護保険適用外の)
  • シニアの認知症やサルコペニア対策(健康教室)
  • 子どもの放課後の無料居場所作り+家庭の団欒時間創出
  • 発達障害や学習障害、家庭が経済的にしんどい子ども向け学習塾
  • 地域のフードロスを生活困窮者支援に繋げる循環型地域食堂

などなど。

エシカルノーマルが挑む環境問題もそうですが、どちらかと言うとこれらも全て対症療法であり、グラデーションなものではあるものの「根本解決です!」とは明確には言えないかもしれません。

これは「根本解決の方が難易度が高い」ということも当然ありますが、それよりも僕が「原体験持ち」だということも起因してるかもしれなくて、自身が体験したしんどさ、生き辛さを同様に抱えてる目の前の人に、
「10年待っててくれ!オラが根本解決のソリューションを必ず作るから!(重言)」
とはなかなか言えないんですよね。

「原体験持ち」はすごくそれに引っ張られるので、自身の琴線に触れる課題とそうでない課題の差が激しい(偏りがある)ことが多いです。
僕の周りの社会起業家たちを見渡しても、「泣いている目の前の人を助けてる」ように見えて、その実「あの日の自分を助けに行ってる」ってのが表現として合ってる気がします(だから情熱が枯渇しない)

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あの日の自分(鼻をほじり過ぎてバイ菌が入って入院した)

ワンアクションマルチソリューション


でもこれはある意味で「呪い」みたいな側面もあるので、長期的視点で冷静に、俯瞰して「根本解決」に挑むのには向かない。
逆に原体験を持たない人の方が、「社会課題は繋がっていて、こちらを叩けばあっちが出てきて、でもここを解決すれば両側の近しい問題も一定解決する」みたいな大局的な判断ができたりするんだと思います(モチベーション維持が課題になりがちですが)
政治家向きですよね。
なので社会の中で役割分担していけばいいですよねって話です。

一方で、対症療法でも根本解決でも、「一気にいくつかの課題にアプローチする」は可能です。
「何かを得るには何かを失う」って価値観はただの「生贄の心理」だし、「二兎追うものは一兎も得ず」は「三兎追えば二兎ぐらい得れるかもしれない」に上書きするべきですw
僕はそれを「ワンアクションマルチソリューション」と呼んでますが、スタートアップの限られたリソースでいくつかの社会課題を解決したいなら、「ここと組めばここにもアプローチできるんじゃない?」
「これを解決できればここもほぼ同時に解決しない?」
みたいな思考を張り巡らせた方がいいと思ってます。

物事の終わりは人に優しい


とは言えそれでも難しいなと。
エシカルノーマルでも「きれいごとで きれいにしよう」を100%は貫けてないなと感じる時はあります。
でもそれは単純に「まだ終わってないだけ」と考えるようにしています。
「無理」なんじゃなくて「まだ」ってことだと考える。
物事の終わりは、いつも人に優しい
人は生きていればそりゃあ誰かに対して恨みがあったり、心の傷が癒えていないことがあったりします。
でもそれはただ「その物事(感情)が終わっていない、まだ過程なんだ(重言)」だということ。
そう考えると、また動き出せる気がしませんか。

僕は今も両親に対して直接伝えるには恥ず過ぎる「感謝」や「申し訳なさ」を抱えていますが、それもまだ「終わっていない感情」だと思って時々カラオケで発散していますw

聴いてください。
「アンマー」

そして最後はやはり仲間募集!


エシカルノーマルももうすぐ設立して3年。
アウトサイドインど真ん中のソーシャルビジネスですが、こんなソーシャルビジネスが日本中、アジア中でスケールして王道のサービスになっていく夢を一緒に追いかけてくれる仲間を募集しています。

「どうせハウスクリーニングをお願いするならエシカルノーマルに頼もう!
と思ってくださる方、
「この仕事をやりたい!」と思ってくれるスタッフ、FCオーナー、
「ゆるーく仲間に入れて欲しい」って方には「ペンギンズ」と呼ばれるエシカルコミュニティもあります!

FC加盟に興味ある方はこの動画を観ていただければ万事休すです!

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