僕はよく人に怒られるんですが、特に家族には
「そこにいたらジャマ」
「そう思ってんのパパだけ」
「食べる前に食べていいか聞けよ。だからデブやねん」
などと注意されますし、
先日はこのnote記事に下ネタを書いてしまい、エシカルノーマルのFCさんに激詰めされたり(当たり前)
最近はAIに軽い相談しただけでブチ切れられるようにもなってきました。

ちなみに感情があるのは人とした当たり前で、心の中に怒りが沸くのも当然だと思うのですが、それを表出させる(伝える)には、「これは言ってもいいやつ」という判断が伴っていることが多いと思います。
世の中の常識とかその人が信じる倫理やルール、正義みたいなもの。
今日はその辺を深掘っていきながら、エシカルについて考えたいなと思います。
世の中には法律に代表されるような、破ると犯罪者になる大きなルールから、会社の規程や学校の校則、さらに「みんな何となくそうしている」大衆の暗黙の了解みたいな見えないルールまで、実にさまざまなルールがありますよね。
もちろん、それらのルールによって秩序が守られているのは間違いないし、信号を守る、契約を守る、人を傷つけちゃいけない、そういう基本的なルールがあるからこそ、僕たちは安心して社会の中で暮らすことができているのだと思います。
ただ一方で、その秩序がいつも全員にとって公平で優しいものかというと、そんなことは全然ないと思ってて、マジョリティや権力者や既得権益者にとって都合のいい秩序として作られていたり、昔は必要だったけれど時代が変わって制度疲労を起こしていたり、もともとは誰かを守るためのルールだったのにいつの間にか誰かを縛るためのルールに変わってしまっていることも多々あります。
だからといって、「じゃあルールなんて守らなくていい」という話ではもちろんなくて(カオス過ぎる)
むしろ僕は、守るべきルールは空気に流されずに守るべきだと思うし、変えるべきルールは文句を言うだけではなく、変えるための小さなアクションを起こすべきだと思っています。
エシカルって盲目的にルールを守ることでも、反骨精神でルールを破ることでもなく、「そのルールとどう向き合うか」を考え続ける価値観なんだと思うんですよね。
エシカルノーマルのFC加盟者向け理念研修でも、僕は必ず最初にこう伝えます。
僕たちは、
「100点のエシカルを1000人増やすんじゃない。
50点のエシカルを100万人増やすんだ。」
そして、そうじゃない人を攻撃しない、分断しない、むしろ仲間にしたい。
エシカルを「正しい人だけのもの」にしてしまった瞬間に、エシカルは広がるどころか正しさの顔をした分断になってしまうからです。

以前、別の記事でも心理学者コールバーグの「道徳判断の発達段階」について少し触れたことがあります。
ものすごく簡単に言えば、
幼い段階では「怒られるから守る」、
少し成長すると「みんながやっているから守る」、
さらに成熟していくと「そのルールは何のために存在しているのか」「誰を守っているのか」「今も本当に機能しているのか」を考えられるようになる、という話。
今回この理論を深掘りしたいわけではないですが、エシカルとルールの関係を考える上では、とても大事な補助線になると思っています。
ここで僕が一番言いたいのは、以下です。
思考停止でルールを守ることと思考停止でルールを破ることは、実は同じ。
一見すると真逆に見えますよね。
一方は従順で、もう一方はめちゃ反抗的。
でも、どちらにも共通しているのは「なぜ?」を手放しているということ。
前者は「ルールだから」で考えるのをやめ、後者は「古いから」「面倒だから」「みんな守ってないから」で考えるのをやめている。
つまり、判断の責任を自分の外に置いているという意味では、どちらも同じ場所にいるんだと思います。
本当に大事なのは、そのルールを守るか守らないかの反射神経ではなく、「このルールは誰を守っていて、誰を置き去りにしていて、今この場面でも機能しているのか」と問い直すことです。
たとえば訪問介護の世界では、介護保険が適用されている本人の洗濯物は畳めるけれど、同居している奥さんの洗濯物は畳めない・・という話があります。
もちろん制度を作った側にも理由はありますし、介護保険は何でも屋さんの制度ではなく対象者の生活を支えるための公的制度なので、線引きが必要なのも分かります。
でも、目の前の洗濯物を見たときに「ここから先は制度外なので知りません」とだけ言って終われるほど、人間の生活はきれいに分かれていないし、正直時間もそこまで変わらない。
「誰得なんだろう?」と思う場面は他にもたくさんあります。
だからこそ「ルールだから」で終わらせるのではなく、「では、この場面で最もエシカルな選択は何なのか」を考えることから逃げないことを、大切にしたいなぁと。

日本人はルールを守る国民性だとよく言われますよね。
たしかに、電車は整列して待つし、落とし物は返ってくるし、災害時にも比較的秩序を保つ国だと海外からビックリされることがあるとよく聞きます。
でも僕は最近、「ルールを守る民族」と言うよりただただ「めちゃくちゃ空気を読む民族」なんじゃないかと少し疑っています。
例えば駅のエスカレーター。
あれだけ何年も啓発ポスターやアナウンスで「歩かず2列で立ち止まってください」と言われ続けているのに、駅では今でも多くの人が片側を空けますよね。

「急いでいる人の邪魔になるから」
「自分だけ寄らないと迷惑なヤツに見えるから」
みたいな心理だと思います。
「やさしさの半分は、知識」って記事も以前書きましたが、
エスカレーターの片側を急いでる人が歩くことで、
・事故リスクを上げ
・輸送効率を下げ
・設備負荷も増やす
んですよね。
つまり、善意とエシカルって別物なんだということ。
社会心理学には、「命令的規範」と「記述的規範」という考え方があります。
命令的規範とは「本来どうすべきか」というルールや道徳のことで、記述的規範とは「実際にみんながどうしているか」という現実の行動のこと。
そして人間は、思っている以上に「本来どうすべきか」よりも「みんながどうしているか」に強く影響される生き物らしいんですよね。
有名な例として、アメリカのペトリファイド・フォレスト国立公園で、化石化した木が観光客に持ち帰られてしまう問題がありました。
そこで「毎年14トンもの木が盗まれています。多くの人が少しずつ持ち帰っています」という趣旨の看板を立てたところ、盗難が減るどころか、むしろ増えてしまったと報告されてました。
「盗んではいけません」と伝えたいはずが、「みんな盗んでいるんだ」という空気を作ってしまい、その記述的規範の方が人の行動に強く作用してしまった・・というわけです。

これ、めちゃくちゃノットエシカルで怖い話だなと思っています。
僕たちは自分で考えて行動しているつもりでも、実際にはかなりの部分を「周り」に預けている。
そしてその周りというものも、どこかに実体があるわけではなく、一人一人の小さな行動によって毎日作られ直している。
社会って、誰かが遠くで運営している巨大システムのように見えるんですが、実は僕たち一人一人の行動が、毎日少しずつ再生産している集合体なんだと、そう思うんですよね。
こういう話になると、いつも昔に長女に言われたことを思い出します。
長女が10歳くらいの頃、僕が高速道路を運転していて少しだけスピードを出していた時のこと。
長女に「パパ、ちょっとスピード出し過ぎちゃう?」と言われたので、僕は「いや周りの車に合わせて走らんと、逆に危ないやろ」と答えました。
すると長女が、「でも、周りの車からしたらパパも周りの車なんやから、スピード守る1台目になればいいんじゃないの?」と言ったんです。
グゥの音も出なかったですねw
僕はその時「周りに合わせている」という言い訳で、自分の判断を外に預けていた。
でも長女は、「その周りを作っている1台に、パパ自身も含まれている」と言ったわけです。

エスカレーターも同じです。
みんなが片側に寄っているから、自分も寄る。
でも、後ろの人から見たら、自分も「みんな」の一部です。
つまり「みんながやっているから」という言葉を使う時、僕たちは自分がその「みんな」を作っている一員であることを忘れてしまう。
守るべきルールだと思うなら、堂々と守る最初の1人になればいいし、
変えるべきルールだと思うなら、最初に違和感を言葉にすればいい。
もちろん、なんとなくそうなってる空気を切り裂く行動は、簡単ではありませんけどね。
エスカレーターで2列に立つのも、高速道路で厳格に速度制限を守るのも、会社で「それはおかしくないですか」と言うのも、周りの空気に逆らうことなのでちょっと勇気がいります。
でもエシカルって、まさにその「ちょっとした勇気」を日常に取り戻すことなんじゃないかと思うんです。
ただしここで絶対に間違えてはいけないのが、ルールや倫理を考え始めると人は容易く他者を裁く側に回ってしまうということ。
エシカルを学べば学ぶほど社会のおかしさも、企業の矛盾も、人の行動の雑さも見えて来るとは思うのですが、それを全部攻撃に変えてしまうと、エシカルは人を幸せにするどころか、人を遠ざけるものになってしまいますよね。
僕は理念研修でも、「そうじゃない人を攻撃しない、分断しない、仲間にする」を再三お伝えします。
だって、だいたい誰かを許せない時って自分が「こんなにも許されて生きてきたこと」を忘れている時だと思うからです。
僕たちはみんな、知らずに誰かに迷惑をかけてきたし、未熟な判断もしてきたし、矛盾した選択もしてきました。
環境に優しくありたいと思いながら便利さを選ぶ日もあるし、人に優しくありたいと思いながら余裕がなくて刺々しくなる日もあるし、正しいことを言いながら自分の都合を優先してしまう日だってあるじゃないですか。
それでも許されて、見逃されて、支えられて、ここまで生かされてます。
だからエシカルの根幹は自分も人も許すこと。
正義感を誰かを責めるためのハンマーではなく、誰かを一緒に誘うためのバトンにすること。

繰り返しますが、
100点のエシカルを1000人増やすんじゃない。
50点のエシカルを100万人増やす。
「完成された正しさ」なんてない。
「神が作った完ぺきなルール」もない。
だから未完成のままでも一緒に良い方向へ歩く人を増やす。
エシカルは「答え」ではなく「方向性」なんだということを、僕は発信し続けたいんですよね。
これも繰り返しになりますが、
ルールは必要。
秩序ももちろん必要です。
でも「ルールを守ること自体が目的」になった瞬間に、ルールは人を守るものではなく、人を思考停止のロボットにしてしまう。
一方で、ルールを疑うこと自体が目的になってしまっても、今度はただの反社になってしまう。
だから大事なのは、ルールを守るか守らないかではなく、「自分はどう在りたいか」を問い続けることなんだと思います。
世の中的にはこうですよ。
ルールはこうですよ。
みんなこうしていますよ。
そういう言葉は、これからもたぶん山ほど出てきます。
でも、そのたびに「はい、そうですか」と判断を外に預けるのではなく、目の前の人を助けること、お客様に喜んでもらうこと、おかしいルールにはおかしいと言うこと、そして守るべきルールだと思うなら、空気に流されず最初に守るファーストペンギンになること。
その積み重ねが、エシカルマインドなんじゃないかと思います。
「正しい人」になるなんて簡単で面白くないし、なんか攻撃的じゃないですか。
だから「考え続ける人」で在りたいなと思うわけです。
考え続けるためにはその材料となる「知識」も必要なので、「知らないことを減らしたいな」というのも同時に。
ちなみに「考える」という行為は、実は意識して使い続けないとどんどん省略されていくんですよね。
脳は体重の2%しかないのに全エネルギーの約20%を消費する燃費の悪い臓器なので、その負荷を減らすために考えなくても済むことを次々と自動運転(潜在意識)に切り替えていく性質があるんです。

ルールに従う方が楽だし、空気に合わせる方が安全だし、誰かの正しさに乗っかる方が責任も少なくて済む。
でも、その「楽さ」の中で少しずつ、自分の在り方を誰かに預けてしまう。
だから僕は、エシカルノーマルという名前で仕事をしている以上、これからも自分に問い続けたいと思います。
それは、本当に人を守っているのか。
それは、本当に環境への負荷を減らしているのか。
それは、本当に未来の誰かに胸を張れるのか。
ルールを守ることも、ルールを疑うことも、その問いのための手段でしかない。
最後に残るのは、何が正しいかではなく、自分はどう在りたいか。
その問いから逃げないことが、僕にとってのエシカルマインドなんだと思います。

商品・サービスがコモデティ化してきたことで、ビジネスには今まで以上に「社会的視点」が必要になってきたんだと感じています。
ハウスクリーニング業界をエシカルがノーマル(普通)な業界に改革しようとしているエシカルノーマル。
FC募集を始めて3年(現在27店舗)、「月に1店までの限定募集!」という緩やかな感じで、共感いただける仲間を募集しています。
「新しいことに挑戦したい!」
「家族に胸を張れる仕事がしたい!」
「社会性と収益性のバランスが最高な事業がやりたい!」
と考えてるあなたへ、
「ぜひ仲間になってください!」と言いたい。
実際に声に出すわけではないですが、言いたい。
こっちばっかり言うの恥ずかしいのでそっちから早く言ってきてください。
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